泥除けからファッションまで 日本古来のはきもの、下駄の歴史

下駄は、農具から始まった

下駄は、農具から始まった

下駄の原型ができたのは、いまからおよそ2000年前、稲作が始まった弥生時代でした。
当時の遺跡からは、水田の中で足が沈み込むのを防ぐ、幅広で歯のない田下駄(たげた)や、泥を練ったり代踏みをしたりするための大足(おおあし)が発掘されています。とはいえ、これらは歩行用ではなく、農具として用いられたものでした。

歩くためのはきもの、下駄のはじまり

下駄が歩行用に使われるようになるのは、古墳時代から。副葬品として、木製の下駄や石製のミニチュアの下駄が、古墳から出土しています。木製の下駄は、台の長さが25センチ〜28センチもあり、当時のひとの体格を想像すると、かなり大型。そのことから、低湿地などで足を汚さないために履かれたものではないかと考えられています。

裾を汚さないために下駄をはく

裾を汚さないために下駄をはく

奈良時代、都の貴族たちは、木履(ぼくり)と呼ばれた下駄を履いていました。また平安時代には、下駄の前身である足駄(あしだ)が生まれ、庶民や武士が履くようになります。
下駄の基本的な形は、この頃にできあがったようです。

しかし江戸時代にかけての下駄の用途は、近代とは異なり、ぬかるんだ道を歩くときや、洗濯や水汲み、便所での用足しの際に、衣服の裾を汚さないためのもの。平安末期の「扇面古甲絵下絵」や鎌倉時代の「餓飢草紙」、江戸時代前期の浮世絵などからは、その様子が伺えます。

バランス感覚を高める一本歯の下駄

バランス感覚を高める一本歯の下駄

平安時代末期、ひらりひらりと舞うように欄干に飛び移り、五条の大橋で弁慶と渡り合ったという牛若丸。平安末期に活躍した彼が履いていたのは、一本歯の下駄でした。
一本歯の下駄は、身体のバランス感覚を高めるために、最適と言われています。もともとは山道のような、坂や険しい場所を歩くために履かれていたものでした。天狗や山伏たちが一本歯の高下駄を履いているのは、そのような理由からなのですね。

鎌倉・室町時代には、台から歯を掘り出していた連歯(れんし)下駄に加え、台と歯を別の材でつくって差し込むための差歯(さしば)下駄があらわれます。

中国の唐代の詩人、李白は、「足には謝霊運特製のかの下駄を履き、山を登り行けば、あたかも青雲の梯子を登り行くかのよう」という漢詩をよみました。
謝霊運特製の下駄とは「謝公の下駄」と呼ばれ、着脱可能な2本の歯がある下駄のことを指します。山を登る際には前の歯を外し、山を下るときには後ろの歯を外すことで身体のバランスを平衡に保つ、というもの。
この下駄が、後の日本の下駄に重大な影響を与えた、という見方もあるようです。

泥除けからファッションとしての下駄へ

裾を汚さないために下駄をはく

江戸時代中期には、雨天や湿地で履かれていた下駄が、晴天でも履かれるようになりました。晴れの日に履かれる連歯下駄は、駒(こま)下駄、日和(ひより)下駄などと呼ばれ、江戸時代末期にかけて最も一般的に履かれた下駄でした。

職人が、その地方の人のために身近な材料で作っていた下駄に、大量生産の波が押し寄せたのは明治時代。原材料の輸入や機械化が始まったことで、靴が庶民に普及していなかった時代の日本人の足元を、下駄は文字通り、支えてきました。

大正から昭和にかけては、塗りや新しい素材による多彩なアレンジの下駄が現れます。その華やかな下駄の流れを引き継いで、いまの美しい下駄の数々があるのです。

【参考図書】
イラストで見るモノのうつりかわり 日本の生活道具百科3 装う道具 
監修/岩井宏實 イラストレーション/中林啓治

はきもの文化の一考察 --- 鼻緒式はきものを中心として---

会津桐の博物館 桐の博物館だよりvol.1
桐と桐下駄ものがたり

下駄の雑学

農業科学博物館
第50回企画展 「生活・生業(なりわい)と履物(はきもの)」

Science Portal China 文化の交差点 File No.14-08 
「中国の下駄と日本の下駄」